坂本龍馬33年の生涯を年表で辿る

坂本龍馬33年の生涯を年表で辿る

土佐藩郷士から脱藩浪士へ:龍馬の青年時代と運命を変えた出会い

天保6年(1835年)、坂本龍馬は土佐国高知城下本町一丁目に生まれました。父・八平は郷士という武士の身分でしたが、商業も営む比較的裕福な家庭でした。龍馬は5人兄弟の末っ子として育ち、幼い頃から自由奔放な性格で知られていました。14歳で母を亡くした後、姉の乙女に厳しく育てられ、剣術を学び始めたのもこの頃でした。

嘉永6年(1853年)、19歳の龍馬は江戸に出て、千葉周作の弟・定吉が開いた千葉道場で剣術修行に励みました。この江戸滞在中にペリーの黒船来航という歴史的瞬間に立ち会い、外国の脅威を肌で感じることになります。翌年土佐に帰国した龍馬は、藩の下級武士として日々を過ごしていましたが、次第に藩の身分制度や保守的な体質に疑問を抱くようになりました。

文久2年(1862年)3月、28歳の龍馬は人生最大の決断を下します。武市半平太の土佐勤王党から離脱し、藩を脱藩したのです。この行為は当時死罪に値する重大な犯罪でしたが、龍馬は「日本を今一度せんたくいたし申候」という志を胸に、故郷を後にしました。脱藩後は勝海舟との運命的な出会いが待っており、この出会いが龍馬の人生を大きく変えることになります。

薩長同盟から大政奉還まで:幕末の政治舞台で活躍した最期の5年間

文久3年(1863年)、勝海舟の弟子となった龍馬は、海軍の重要性と開国の必要性を学びました。翌年、勝が軍艦奉行を罷免されると、龍馬は神戸海軍操練所の塾生らと共に薩摩藩の庇護を受け、慶応元年(1865年)に日本初の商社「亀山社中」を長崎で設立します。この組織は貿易業務だけでなく、政治的な仲介役も果たし、龍馬の政治的影響力の基盤となりました。

慶応2年(1866年)1月21日、龍馬は薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎(後の木戸孝允)の間を取り持ち、薩長同盟を成立させました。犬猿の仲だった両藩を結びつけたこの偉業は、倒幕への道筋を決定づけました。同年3月には長州藩の下関で、後に妻となるお龍と日本初の新婚旅行とも言われる薩摩旅行を楽しんでいます。この頃の龍馬は政治的手腕を発揮する一方で、私生活でも充実した時期を過ごしていました。

慶応3年(1867年)6月、亀山社中は土佐藩の外郭団体「海援隊」として再編されます。10月3日には後藤象二郎を通じて土佐藩から幕府に「大政奉還建白書」が提出され、15日に徳川慶喜はついに政権を朝廷に返上しました。龍馬の描いた「船中八策」に基づく新国家構想が現実味を帯び始めた矢先、同年11月15日、近江屋で中岡慎太郎と共に何者かに暗殺されました。33年という短い生涯でしたが、龍馬が日本の近代化に果たした役割は計り知れないものがありました。

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