近江屋事件の真相〜龍馬暗殺の黒幕は誰だったのか?
慶応3年11月15日、京都近江屋で起きた坂本龍馬暗殺事件の謎に迫る
慶応3年(1867年)11月15日の夜、京都河原町の醤油商「近江屋」で、維新回天の立役者・坂本龍馬が何者かによって暗殺されました。この事件は「近江屋事件」として歴史に刻まれ、155年以上が経過した現在でも、その真相は完全には解明されていません。龍馬と共に中岡慎太郎も襲撃を受け、龍馬は即死、中岡は2日後に息を引き取りました。
事件当夜、龍馬は近江屋の2階で中岡慎太郎と密談中でした。午後8時頃、「十津川郷士」と名乗る数名の男たちが訪問し、取次ぎを求めます。龍馬の従僕・山田藤吉が応対している隙に、刺客たちは2階へと駆け上がりました。短時間の斬り合いの後、龍馬は額から後頭部にかけて深い刀傷を負い、絶命したのです。
この暗殺事件は、大政奉還が行われてわずか1か月後という、まさに日本の歴史が大きく動いている最中に起こりました。薩長同盟の仲介者として活躍し、土佐藩の後藤象二郎とともに大政奉還を推進した龍馬の死は、多くの人々に衝撃を与えました。しかし、犯人の正体は謎に包まれたまま、様々な憶測を呼ぶことになったのです。
見廻組説から薩摩藩黒幕説まで、諸説入り乱れる真犯人を徹底検証
最も有力視されているのが「京都見廻組犯行説」です。明治以降、元見廻組隊士の今井信郎や渡辺篤らが龍馬暗殺への関与を証言しており、実行犯として今井信郎、佐々木只三郎らの名前が挙げられています。見廻組は京都守護職・松平容保の配下で、尊王攘夷派の取り締まりを任務としていました。龍馬の革新的な政治活動は、幕府側から見れば危険視すべき存在だったのは間違いありません。
一方で、「薩摩藩黒幕説」も根強く支持されています。この説では、龍馬の「船中八策」に基づく平和的な政権移譲路線が、武力倒幕を目指す薩摩藩の利益と対立したため、薩摩藩が見廻組を利用して龍馬を暗殺したとされます。実際、龍馬は大政奉還後の新政府構想において、薩摩藩の独占的な権力掌握を牽制する立場にありました。西郷隆盛らにとって、龍馬の存在は邪魔な存在となっていた可能性があります。
その他にも、新選組の関与を疑う説や、土佐藩内の保守派による暗殺説なども提起されています。また、幕府の隠密組織や、攘夷派の過激分子による犯行という可能性も完全には否定できません。複数の政治勢力が複雑に絡み合う幕末という時代背景を考えると、単一の組織による単純な暗殺事件ではなく、より深い政治的な陰謀が隠されている可能性も十分に考えられるのです。