龍馬の妻・お龍〜激動の時代を支えた女性
坂本龍馬を陰で支えた謎多き女性・お龍の素顔と、夫妻が過ごした短くも濃密な日々
楢崎龍(ならさき りょう)、後にお龍と呼ばれた女性は、天保12年(1841年)に京都で生まれました。父は楢崎将作という医師で、お龍は比較的恵まれた環境で育ちました。しかし、幕末の動乱期に父を亡くし、家族は困窮することになります。美しく聡明で、当時の女性としては珍しく自立心の強い性格だったお龍は、やがて運命の人・坂本龍馬と出会うことになるのです。
慶応元年(1865年)頃、お龍は京都の寺田屋で龍馬と知り合います。寺田屋は薩摩藩士たちが定宿としていた旅館で、お龍はそこで働いていました。龍馬より7歳年下のお龍でしたが、その機知と美貌は多くの志士たちの注目を集めていました。二人の恋愛関係がいつから始まったかは定かではありませんが、龍馬の手紙からは、お龍への深い愛情と信頼がうかがえます。
慶応2年(1866年)1月、寺田屋事件が起こります。この時、お龍は入浴中に伏見奉行所の役人たちが寺田屋を取り囲んでいることに気づき、裸のまま2階に駆け上がって龍馬に危険を知らせました。この機転により龍馬は九死に一生を得ることができ、お龍の勇気と冷静さが龍馬の命を救ったのです。この事件は、お龍が単なる恋人ではなく、龍馬にとって真のパートナーであったことを物語っています。
幕末の動乱期に龍馬と共に歩んだお龍の生涯と、彼女が果たした知られざる役割
寺田屋事件で負傷した龍馬は、薩摩藩の西郷隆盛らの計らいで霧島温泉で療養することになりました。この時、お龍も同行し、二人は新婚旅行とも言える時間を過ごします。これは日本初の新婚旅行とも言われており、龍馬からお龍の実家に送られた手紙には、温泉での楽しい日々の様子が生き生きと描かれています。二人にとって、この霧島での日々は束の間の平穏な時間でした。
お龍は龍馬の政治活動においても重要な役割を果たしていました。彼女は龍馬の身の回りの世話をするだけでなく、情報収集や連絡役としても活躍していたとされています。当時の女性としては珍しく読み書きができ、龍馬の書簡の代筆を行うこともありました。また、龍馬が長崎や江戸を行き来する際には、京都での留守を預かり、海援隊の隊士たちとも親しく交流していました。
慶応3年(1867年)11月15日、京都近江屋で龍馬が暗殺されると、お龍の人生は一変します。龍馬の死後、彼女は土佐の坂本家に身を寄せようとしましたが、龍馬の家族との関係はうまくいきませんでした。結局、お龍は京都に戻り、その後は横須賀で西村松兵衛という男性と再婚し、西村ツルと名乗って明治39年(1906年)まで生きました。龍馬との結婚生活はわずか2年ほどでしたが、激動の幕末を共に駆け抜けた二人の絆は、多くの人々に語り継がれています。