いろは丸事件の真相〜龍馬が挑んだ紀州藩との法廷闘争
海援隊の商船いろは丸が紀州藩の軍艦明光丸と衝突した海難事故の背景と、両藩の言い分の食い違い
慶応3年(1867年)4月23日の夜、瀬戸内海の備讃瀬戸で一つの海難事故が発生しました。土佐藩の外郭団体である海援隊が運航していた蒸気船「いろは丸」(160トン)が、紀州藩の軍艦「明光丸」(887トン)と衝突し、いろは丸が沈没するという事件です。この衝突事故は、単なる海難事故を超えて、幕末の政治情勢に大きな影響を与える重大事件へと発展していくことになります。
事故当時、いろは丸には坂本龍馬をはじめとする海援隊士約30名が乗船しており、長崎から大坂へ向かう途中でした。船には銃器や軍需物資などの貴重な積荷が満載されていたとされています。一方の明光丸は、紀州藩が誇る最新鋭の軍艦で、江戸から紀州へ帰る途中でした。霧の濃い夜間航行という悪条件の中で、両船は正面衝突に近い形で激突したのです。
事故直後から、両藩の言い分は真っ向から対立しました。紀州藩側は「いろは丸が針路を誤って明光丸に衝突してきた」と主張し、海援隊側は「明光丸が一方的に衝突してきた」と反論しました。特に問題となったのは、どちらが海上交通のルールに従って航行していたかという点でした。当時の航海規則では、蒸気船同士が正面から接近した場合、互いに右に舵を切って回避するのが国際的な慣例でしたが、両者の証言は食い違っていました。
龍馬が近代的な海事法や万国公法を駆使して紀州藩と交渉し、賠償金を勝ち取った画期的な法廷闘争の全貌
坂本龍馬は、この事件を単なる事故として処理するのではなく、近代的な法理論に基づいた本格的な法廷闘争として挑むことを決意しました。龍馬が注目したのは、当時日本でも徐々に導入されつつあった「万国公法」(国際法)でした。これは西洋諸国で確立されていた海事法の概念で、船舶の衝突事故における責任の所在や賠償の原則を定めたものです。龍馬は長崎での外国人との交流を通じて、こうした法的知識を身につけていたのです。
交渉の舞台となったのは鞆の浦(現在の広島県福山市)でした。ここで龍馬は、紀州藩の重役たちを相手に堂々と法廷論争を展開しました。龍馬の戦術は実に巧妙で、まず事故の責任が明光丸側にあることを万国公法に基づいて論証し、次にいろは丸の積荷の損害額を詳細に算定して提示しました。特に注目すべきは、龍馬が「ええじゃないか、ええじゃないか、紀州の殿様お気の毒や」という風刺歌を作らせ、民衆の世論を味方につけるという近代的な世論戦術を用いたことです。
最終的に、この交渉は龍馬の完全勝利に終わりました。紀州藩は海援隊に対して83,526両という巨額の賠償金を支払うことで合意したのです。この金額は現在の価値で数十億円に相当する巨額でした。この勝利は、単に金銭的な成果にとどまらず、日本の法制史上画期的な意味を持っていました。従来の武力や権威に頼った紛争解決ではなく、近代的な法理論と交渉術によって問題を解決したという点で、明治維新後の近代国家建設の先駆けとなる出来事だったのです。龍馬のこの勝利は、彼の政治的影響力を大いに高め、その後の薩長同盟の仲介や大政奉還への道筋をつける重要な足がかりとなりました。