龍馬の剣術〜北辰一刀流免許皆伝の実力

龍馬の剣術〜北辰一刀流免許皆伝の実力

千葉道場で磨かれた剣の腕前〜江戸遊学時代の修行と師匠との絆

嘉永6年(1853年)、19歳の坂本龍馬は剣術修行のために江戸へと旅立ちました。向かった先は、桶町にある千葉定吉の道場「玄武館」。ここで龍馬は北辰一刀流という剣術流派と出会うことになります。土佐藩の下級武士の次男として生まれた龍馬にとって、江戸での剣術修行は大きな転機となる体験でした。

千葉定吉師匠のもとで、龍馬は朝から晩まで厳しい稽古に励みました。北辰一刀流は実戦を重視した流派として知られ、竹刀を使った稽古だけでなく、真剣での型稽古も行われていました。龍馬の天性の運動神経と持ち前の集中力は、この道場でも遺憾なく発揮されたようです。師匠の定吉や、その娘である千葉さな子との交流も深まり、龍馬にとって千葉道場は第二の故郷のような存在になっていきました。

約1年間の江戸遊学を終えて土佐に帰った龍馬でしたが、再び江戸に戻って修行を続けます。この頃の龍馬は、単なる剣術の技術習得だけでなく、江戸で様々な人々と交流し、見聞を広めていました。千葉道場での経験は、後の龍馬の人生において重要な基盤となったのです。剣術を通じて培った精神力と人脈は、幕末の激動期を生き抜く力となったのでしょう。

免許皆伝の真実〜龍馬の剣術レベルは本当に達人級だったのか?

龍馬が北辰一刀流の免許皆伝を受けたという話は広く知られていますが、実際のところ、この「免許皆伝」の真偽については歴史学者の間でも議論が分かれています。確実な史料として残っているのは「小目録」という、いわば初段程度の免状のみ。しかし、千葉家の人々が龍馬を高く評価していたことは間違いなく、特に千葉重太郎(定吉の息子)との親交は生涯にわたって続きました。

では、龍馬の実際の剣術の実力はどの程度だったのでしょうか。同時代の証言を総合すると、龍馬は確かに相当な腕前を持っていたようです。土佐藩の剣術指南役からも一目置かれる存在でしたし、京都での政治活動中も、いざという時には剣を抜いて戦う覚悟を持っていました。ただし、剣豪として名を馳せた桂小五郎や沖田総司のような、純粋な剣術家としての評価は受けていません。

興味深いのは、龍馬自身が剣術をどのように捉えていたかということです。彼にとって剣術は、単なる武芸の一つではなく、自分を守り、信念を貫くための手段でした。実際、寺田屋事件では見事な剣さばきで危機を脱しており、実戦での経験も積んでいます。免許皆伝の真偽のほどは定かではありませんが、龍馬が北辰一刀流で培った技術と精神は、激動の幕末を駆け抜ける原動力の一つであったことは間違いないでしょう。

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